反応しない練習

草薙龍瞬 著 / 


私たちの日常は「心の反応」で作られている。


失敗が重なって落ち込んだり、人間関係で苦しんだり、日々の生活に追われ、ストレスを感じたり、友人、知人に嫉妬や怒りを抱いたり…

これらの悩みは全て「心の反応」から始まっている。


人はどんな人間であろうと、数多くの悩みに苛(さいな)まれて生きている。

それは生きていく上でけして避けては通れないもの。

ならば、生きることは辛く、苦しいことであると肯定し、受け入れ、「ムダな心の反応」をしないことで、悩みを消し去り、豊かに幸せな道を歩むことを目指そう。


ブッタの教えとは、その「心のムダな反応」を止めることで、いっさいの悩み、苦しみを抜ける方法である。

これは、「何かを信じれば救われる」という宗教ではなく、「こう考えれば、悩み、苦しみを抜け出せる」という、とてもシンプルでいて、実用的で合理的なメソッドである。


例えば、人は直ぐに判断したがる。

自分は駄目な人間だとか、俺の方が優れている!とか、あいつのあの態度が気に入らない、嫌いだ!とか。

こういう過剰な心の反応は得てして、マイナスな方向に動く。

「自分も他人も判断しない」ことが、一番楽な生き方です。


また、他人に認められたくて、相手より上にいきたいという承認欲も心の反応です。

承認欲が認められないと、不安や怒りが生まれる。

反応しそうになったら、「あ、心が反応してるな…」と気付き、反応をやめ、今、自分に出来ること、目の前の目標に向かって、頑張るだけでいい。

他人の評価、相手の立場なんてものは、いくら考えたってきりがなく、終着点がないからだ。


だったら全て無反応でいた方がいいのか、いや、それは違う。

仏教では、人生は「快」と「不快」に分けられる。

「快」とは、喜びや楽しさを感じている心の状態。

「不快」とは、怒りや恐れ、不安を感じている心の状態。


人生は二者択一。

幸せになりたいなら、「快」の方向に心を反応させ、不幸になりたくないなら、「不快」の方向に反応しないように努力する。

欲求は素直に否定することなく、満たしてあげるのが、幸せへの近道だ。


また、仏教用語に「不動心」という言葉がある。

これは心が全く動かないということではなく、元々人間が持っている、怒りや恐れ、不安などで、心が反応した時、それに素直に気付き、受け入れ、反応を鎮める心づもりのことを言う。


さらにその上に到達すると、それこそ、何事にも動じず、静かなる湖面のような心模様が「涅槃(ねはん」という境地だ。

これは相当な修行を積まないと、どんな高僧でも辿り着かないもの。

無論、お釈迦様はその境地にいらっしゃります。


日々、煩悩まみれのわたくしめには、到底及ばぬ境地ではありますが、心が反応しない練習を積み、精進したいと思う所存です。


★ハッとしてグッとポイント★

しなくていい判断は、しない方がいい。

人間にとって一番大切なことは、「心に苦悩を溜めない」ことである。

読んだら忘れないための備忘録

歳を重ねるにつて、読んだ端からすぐ忘れては、本屋でお気に入りの本を手に取り、帰ってみたら、自宅の本棚に全く同じものがある光景に辟易してしまう。 そんな負の連鎖を極力避けるべく、またせっかくの学びをより確かなものにするための備忘録です。

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