新しい道徳

北野武 著 / 


現代の道徳というやつは突っ込みどころが満載だ。

  

例えば小学校の教科書に必ず出てくる、「ゴミが落ちてたら拾いましょう」とか「お年寄りは大切にしましょう」というやつ。

老人を見つけたら有無を言わせず親切にねと、まるで社会的弱者だからと言わんばかり。

 

なぜ老人を大切にするのか?

 

それは戦後間もない焼け野原から、彼らが必死になって生きて、労働に励み、今の経済がある。

その一番大切なことが何も語られていない。

だたそうしましょう、と言われてもピンとこない。

  

人に何かを伝え理解させるために必要なのは、巧妙な話術でも立派な文言でもなく、伝える側の本気度だ。

 

さらに老人は全て素晴らしい人とは限らない。

現に刑務所に送り込まれる老人の数は増える一方なのだ。

そういった負の要素も踏まえて語る本気度があるかどうか。

  

そして道徳というやつは、その時の権力者の都合でいくらでも変わる。

 

人を殺めることは道徳的に罪である。

場合によっては極刑が執行されるが、戦争によって何千人、何万人と殺せば英雄と崇めらるる。

子供には喧嘩しちゃいかんと言っておきながら、戦争を繰り返すなんて、言語道断なわけだ。

  

道徳をしっかり 身につけないとロクな人間にならないというのも嘘だ。

 

大体において道徳を有効に活用しているのはむしろ不道徳な人間だ。

オレオレ詐欺がそのいい例だ。

子や孫への愛情を餌にする、人の心の優しさに付け込む卑劣な行為。

今の世の中、道徳的な人間ほど要注意というわけだ。

  

鳥はルールや法則に従ったから飛べたわけではない。

日々飛びたいと願い、試行錯誤を繰り返し、努力し、自然と飛べるようになる。

ルールや法則なんてものは後から付いてくるもの。

順番が逆だ。

  

人間社会の中で、上に行こうとするやつは、放っておいても道徳的になる。

向上心があればそういったものは自然と身につく。

そうではないと上には行けない。

  

どんなに厳しく道徳を躾けたところで、自分からそう思わなきゃ意味がない。

 

結局のところ、道徳は自分で身につけるものなのだ。

 

★ハッとしてグッとポイント★

価値観がいろいろあれば、道徳だっていろいろある。

道徳というのは、価値観の上に乗っかっているものだ。

読んだら忘れないための備忘録

歳を重ねるにつて、読んだ端からすぐ忘れては、本屋でお気に入りの本を手に取り、帰ってみたら、自宅の本棚に全く同じものがある光景に辟易してしまう。 そんな負の連鎖を極力避けるべく、またせっかくの学びをより確かなものにするための備忘録です。

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